取立(Reimbursement)方式。送金為替の支払資金の求償方式として、被仕向銀行が支払実行後に仕向銀行に求償する方式をいう。もっぱらノン・デポ取引となる。 データ復旧も、山本権兵衛内閣や護憲三派による加藤高明内閣にも閣内協力をした。ただ、これだけで犬養を「変節漢」と呼ぶのはいささか酷かもしれない。犬養は普通選挙の実現をはじめ、経済的軍備論、南方進出論、産業立国論など独自の政策を温めていた。その実現のために、よりましと思われる政権に加わったとも解釈できる。明治の政界で隠然たる影響力を誇っていた山縣有朋が「朝野の政治家の中で、自分の許を訪れないのは頭山満と犬養毅だけ」と語ったという話もある。同じように藩閥支配に敵意を抱きながら、原敬は山県に接近し、その力を利用して自らの勢力拡大を図った。一方で犬養はその道をたどらず、ほとんど少数政党に身を置いて苦労を重ねた。私生活では全く無欲の人で、細かいことには無頓着だった。嫌いな食べ物が出ても文句を言わず、着せられる着物を黙って着ていた。議会事務局で働く少年が病気になると、自宅に引き取って学校に通わせるなど、困った人を見ると援助の手を差し伸べずにはいられないところもあった。宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて中国から亡命してきた孫文や蒋介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまったこともあった。宮崎は当初、犬養が大隈重信寄りだったため警戒していたが、自宅で会ってみると、煙草盆片手にヒョロヒョロと出てきて、あぐらをかいて煙草を吸い全く気取らない。宮崎は直感的に「好きな人」と判断したという。ちなみに孫でエッセイストの安藤和津によると、ひどく女好きであったという。 監視カメラが総理になったのにはいくつかの偶然が重なったからだった。これより前、犬養は一度政界を引退して、富士見高原の山荘に引きこもっている。自らの率いる革新倶楽部が選挙のたびに議席を減らすので、1925年(大正14年)に政友会と合同した責任を取ったのである。政友会の党首は長州閥で陸軍出身の田中義一だった。尾崎行雄はこれに激怒して訣別を表明し、藩閥勢力に屈したと非難を浴びた行動だったが、犬養は第1次加藤内閣の閣僚を辞し、議員も辞職して筋を通し、政界から引退したのだ。ところが、地元岡山の選挙民は納得しない。犬養の了承を得ないで、彼の引退に伴う補欠選挙で犬養自身を当選させてしまった。さらに田中義一政友会総裁が急死するという偶然が重なる。跡目を巡って鈴木喜三郎と床次竹二郎が激しく争い、党分裂の恐れが出た。党内の融和派が犬養担ぎ出しに動き、嫌がる犬養を強引に説得した。1929年(昭和4年)10月、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれてしまった。 看護師 求人は対立する民政党政権の瓦解だった。まず、濱口雄幸総理が東京駅頭でテロリストに撃たれ、その傷がもとで退陣した。後を継いだ第2次若槻禮次郎内閣も、1931年(昭和6年)に勃発した満州事変を巡って閣内不統一に陥り、総辞職した。この頃は内閣が行き詰まって政権を投げ出したときは、野党第1党に政権を譲るという「憲政の常道」のルールが確立されていた。その上、元老・西園寺公望は犬養が満州事変を中華民国との話し合いで解決したいとの意欲を持つことを評価して、昭和天皇に野党・政友会総裁の犬養を推薦したのである。この時、犬養は数え年で77歳。新聞は「昭和の実盛」と書いた。白髪を黒く染めて戦った源平期の老武将斎藤実盛になぞらえたのだ。 転職サイトは組閣の大命が下ると直ちに解散・総選挙を断行し、政友会の議席を大きく伸ばした。これによりまず国民の支持を取り付けた上で、高橋是清を蔵相に起用して経済不況の打開と取り組んだ。高橋は金輸出再禁止と兌換停止を断行、同時に積極財政へと転換を図った。これで日本経済は徐々に回復の方向に向かった。しかし、もう1つの課題の満州事変の処理は難物だった。犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。犬養の解決案は、満州国の形式的領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くというものだった。かねて支援していた元記者の萱野長知を上海に送って、国民党幹部と非公式の折衝に当たらせた。しかし不幸なことに、対中国強硬派の森恪が内閣書記官長の職に居た。森も若い頃は三井物産の社員として中国で働き、孫文の革命運動を支援したこともあったが、政界入りしてから右傾化し、軍内部の大陸権益拡張派や右翼との親交を深めていた。森は犬養の推進する対中融和路線には不満で、辞表を提出して犬養を困らせていた。犬養は秘密裡に交渉を進めていたが、交渉が煮詰まった段階で森の知るところとなり、森が萱野からの電報を握りつぶしてしまった。中国が最終的に犬養案を飲んだかという疑問は残るが、成功の可能性のあった交渉は挫折してしまった。 犬養はまた、軍の青年将校の振舞いに深い憂慮を抱いていた。陸軍の長老・上原勇作元帥に手紙を書き、この風潮を改められないか訴えた。また天皇に上奏して、問題の青年将校ら30人程度を免官させようと考えていた。犬養はその考えを外相・芳沢謙吉と森に喋ったため、森を通じて陸軍に筒抜けとなり、軍は統帥権を侵害するものと憤激した。何故森を書記官長に据えたかと聞かれたとき、犬養は「手放しておくと危険だから、手近に置いた」と答えたという。このあたりの判断はかなり甘かったと言わざるを得ない。 五・一五事件を伝える大阪朝日新聞1932年(昭和7年)5月15日はよく晴れた日曜日だった。犬養は総理公邸でくつろいだ休日を過ごしていた。夫人、秘書官、護衛らも外出していた。犬養は往診に来た医者に鼻の治療を受けていた。 5月19日、犬養の葬儀が官邸の大ホールでしめやかにとり行われた。「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す。チャーリー・チャップリン」? たまたま来日中で官邸からほど近い帝国ホテルに滞在していた喜劇王から寄せらた弔電に驚く参列者も多かった。 遺骨は青山墓地に納められている。 犬養の死は大きな後遺症を遺し、昭和史の分水嶺となった。 五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたものの軽い刑で済み、数年後に全員が恩赦で釈放され、満州や中国北部で枢要な地位についた。現職総理を殺したテロリストに死刑も適用しなかったことが、さらに大掛かりな二・二六事件の遠因となったとも言われる。なお、五・一五事件の海軍側軍法会議の判士長は「殉教者扱いされるから死刑を出すのは良くないと思った」と語っている。 この事件後、テロを恐れるあまり政治家たちが反軍的な言動を差し控える風潮が広がった。新聞社は軍政志向への翼賛記事を書き始め、政治家は秘密の私邸を買い求め、ついには無産政党までが「憎きブルジョワを人民と軍の統一戦線によって打倒する」などと言い始めた。昭和天皇は、続く二・二六事件に衝撃を受け、自身の政治発言が軍部を刺激することを自覚してしまったといわれる。中国戦線において、参謀本部に事変不拡大の意志を持つ石原莞爾がいるにも関わらず、彼を後押しをすることが出来なかった。かくして日本は陸軍統制派による軍閥政治への道を歩み出していくことになる。